昨今国内外の株式市場のボラティリティが上昇してきました。
特に日本においてはアベノミクと東京オリンピック効果により良い雰囲気が続いておりましたが、ここに来て変調をきたしてきました。
しかしながら、もしもの事態が起きた時、その時こそがチャンスとするのが投資家的発想、又はビジネスの基本ではないかと思います。
私の祖父は、昭和の初期まで千葉県の佐原という町で旅館業を営んでいました。
その旅館は、親戚の話によると、当時佐原の町で一番大きく、町で初めての洋式のホテル仕様だったということです。
以前から父方(長谷川)の親戚のことを「ブンテンのおじさん」とか「ブンテンのおばさん」と呼んでいました。私は子どもながらに、ブンテンとはどこか地名のことだろうと思っていましたが、後に「ブンテン」が「分店」という意味だということがわかりました。
経営者かつ当主であった祖父が42歳で病により急死してからは、長年続けていた旅館業を廃業して家族は佐原の土地を去りました。ここで商家としての流れは途絶えてしまいました。
しかし、お墓がこの地に残り、私は子どもの頃からお盆や法事の度に佐原に訪れました。
佐原はかつて商業の町として非常に栄えた時代がありました。陸上交通のなかった時代、利根川流域でとれた大量の米を、その河口に近い佐原に一度集積し、そこから船に乗せて房総半島を回って江戸に運んだそうです。つまり、当時佐原は利根川流域の大穀倉地帯の物流基地として栄えたようです。
その後、陸上交通が発達したことにより、物流基地としての佐原の地位も経済も急激に低下していったのだと思われます。
よって、私の知る佐原は、ただ単に寂れた田舎町といったものしかありませんでした。ところが、ここ十数年で、佐原はいつの間にか観光の町として生まれ変わっています。
太平洋戦争の空襲を免れたからだと思いますが、佐原の町には未だ古い建物が残り、かつての商人の町としての面影が残っているのです。春と秋の祭りの時には、特に多くの観光客が訪れるようになりました。
現在佐原の町を歩くと古い建物が残っているだけでなく、何時の頃からか観光客向けに商店がその店先に自分たちの先祖についての解説が書かれたが立て札が設置されるようになりました。伊能忠敬が養子に入った伊能家の商家も往時のまま残っています。
この古い商家を一つ一つ見ていくと、驚くことに彼らの先祖はほとんど「近江」を中心に「関西」からきているのです。実は私の先祖も、幕末までは紀州徳川家(和歌山)の武士だったらしいのですが、明治維新後に一度日本橋に出て「商い」を学び、その後佐原に移住したとのことです。
私は中長期的にみれば今後の日本の経済は厳しくなると感じているのですが、同時にそれは再度激動の時代を迎えるということを意味していると思います。
多くの日本人にとって閉塞感が漂っている今の日本経済ですが、私が思うに「それは」今いるところに留まっている故の閉塞感と言い換えることができるとも思います。
不動産業界においても、私の周りでは、ラオスやベトナムまたはカンボジアに不動産業を新たに興しに行くという話をよく聞くようになりました。
また、既に中国本土や香港シンガポールにおいて不動産関連ビジネスを行っている者も何人もいます。家族を連れて、ある意味移住した者もいます。
明治維新ほどの大きな変化と激震が今後この日本を襲うかどうかはわかりませんが、人口問題、高齢化問題、二極化問題を抱えたこの国において、程度の差はあれど、おそらく何らかの大きな変化が起こらざるを得ない時が来ているのを感じます。
よって、私たちも幕末から明治維新の時代にビジネスチャンスを求めて未知の土地へ移住した商人のように、大きな決断を下すことが重要になって来るかもしれません。
日本経済の近代史を見ていくと、戦争が繰り返された激動の時代にこそ多くの起業家や実業家が生まれていることがわかります。
おそらく日本は、社会主義的な国として低迷していくことを選ぶことはないと願っています。
更に言えば、自然発生的になのか、誰か強力なリーダーシップをもった政治家によってなのかはわかりませんが、再度大きな変革の時代を迎えるだろうと思います。
皆さんの中で、国内にいてはどうも色々なことが難しいという思いに至っている方がおられるのであれば、これから急激に発展していくであろう東南アジアの新興国を目指すことはしごく当然の流れであると思います。
おそらく、不動産関連業種や投資事業においてだけでなく、全ての業界で同じようなことがいえるのではないかと思います。
それは、徳川幕府が江戸を開き、経済の中心が京都から江戸に移った時、多くの商人もその大きな流れに乗って江戸に移ったように。