震災から5日後だったか東灘区へ。
急遽実家に帰った同僚へ会社の携帯電話を届けに行った。
固定電話が極端に繋がり難くなっていた。
前日は、京都駅前の法華ホテルに泊まった。
京都でも余震が続いていた。
梅田駅周辺は不思議な程、全てが平常通り動いているように感じた。
その西宮駅でも水道は止まっておりトイレは使えなかった。
そのこら国道を5時間程歩いた。
芦屋辺りから道路がチューインガムのように曲がり始め、倒壊している家が現れてきた。
パジャマ姿の品の良い老女が素足で水を求めて歩いていた。
神戸に入ると国道沿いの至るところに布団が敷かれ、遺体が横たわっていた。
唯一通行できる国道は自衛隊の車両とダイエーの車両が目立った。
東灘区まで来ると、見渡す限り殆ど例外なく戸建住宅は倒壊していた。
現実の世界とは思えなかった。
目的地の全壊した戸建の前にしばらく佇んでいると、鳶職のように屋根伝いに一人の男が近付いて来た。よく見ると自衛隊の人だった。
「どこから手を付けて良いのか分からない」と言っていた。
避難所の小学校には大量の水と食料が既に運び込まれていた。
しかし、トイレは、校庭に穴を掘って作った簡易トイレ一つのみだった。
シートで囲われている男女兼用トイレだった。
帰路、開いている店はローソンだけだった。
ローソンには、ガムテープや数点の日用品しか置いていなかったが、丁度トラックが到着し、大量の賞味期限切れのおにぎりが搬入された。そこで急に人が集まり競って買っていた。
焼き芋屋の屋台が一個1,000円で焼き芋を売っていた。
その一月後、私は予定通り会社を辞めた。
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