新東京邂逅記 by 長谷川高

厳しい時代を生き抜く為の資産防衛と不動産戦略

全ナンムス君のこと


ナンムス君とは通っていた保育園で初めて出会った。
彼は私にとって、生まれて初めてできた友達であり親友だった。
ナンムス君は実に優しい子供だった。
それに比べ、私は・・・・彼にとって良い友人ではなかったかもしれない。


私とナンムス君は同じ都営住宅に住んでいて家も近かった。


小学校に上がる時、ナンムス君は民族系の学校へ行くことになり通う学校が異なってしまった。
とても寂しく残念に思ったことを覚えている。
ナンムス君の家では近所の教会の牧師先生を呼んで子供向け英会話教室や、ピアノ教室が開かれた。
住宅を増築した寺子屋みたいな部屋に小学生になった私も通い、彼と一緒に英会話やピアノを習った。それ故、彼との交流は細々とながら続いた。


しかし、私も小学校高学年になるころにはその教室に通うこともなくなってしまった。
完全なる野球少年になり、毎日野球野球で、ピアノも英会話も辞めてしまった。
その後、更に私は同じ市内の別の場所に引っ越してしまい、彼とは会う機会が全くなくなってしまった。


ナンムス君は民族系の中学校を出た後、都立の進学校へ進み、その後東京大学に入ったと聞いた。
実は彼のお兄さんも立川高校から現役で東大、お姉さんも同じ72群から東大の医学部に入った。私の知る限り兄妹で上から3人は皆東大だ。
ナンムス君は当時8人か9人兄弟で、大勢の弟妹がいた。



両親共稼ぎの私は、母親の帰りが遅い時など、ナンムス君の大勢の家族と一緒に夕食をごちそうになった。
当時キムチはまだスーパーに売ってなく一般家庭では馴染みのない漬け物だったが、ナンムス君のお母さん作るキムチは抜群に美味しかった。


ナンムス君の姓は「全」といった。
近所の人は「ゼンさん」と呼んでいた。


ナンムス君のお父さんは朝鮮大学の物理の先生だった。その風貌は正にアインシュタインのようだった。
何時も背筋を延ばして堂々と歩いていた。


私の父親が「ナンムス君のお父さんの論文が時々専門雑誌に掲載されているんだよ。あの人が日本人なら間違い無く日本の一流大学の教授になっていてもおかしくない人だよ」と言っていた。


ナンムス君は、大学を出た後、IBMに就職したと噂で聞いた。
今でもIBMに在籍しているのだろうか?
元気に暮らしているのだろうか?
何よりこの日本で幸せに暮らしているだろうか?

できれば、彼に会いたいと最近よく思うのです。



長谷川不動産経済社